平田は先刻から一言も云わないで居る。酒のない猪口が幾度飲まれるものでもなく、食いたくもない下物(さかな)をむしったり、煮え付く楽鍋(たのしみなべ)に杯泉の水を加したり、三つ葉を挟んで見たり、種々自分を持扱いながら、吉里が此方を見て居らぬ隙を覘(ねらって)は--
※吉里は吉原の売れっ子娼妓で、平田は永年の愛人だ。やがて吉里は愛する平田と別れるはめになり、嫌いな男、古着屋の善吉と心中してしまう。吉里の遺書には吉里といっしに写した写真が入っていた。別れるころの場面に楽鍋が登場する。楽鍋は寄せ鍋の類だという。いろいろな具を鍋にいれ、自分で煮ながら食べるスタイル。当時としてはハイカ
ラな料理ともいわれる。