鍋という言葉に、調理具から料理そのもの名を示す意味が加わったのは江戸中期以降と言われる。そのきっかけとなったのは、「小鍋立て」と呼ばれる料理方法の普及である。
七輪、火鉢などに鍋を掛け、材料を煮ながら食べるこの料理方法は、湯豆腐、どじょう鍋などを出す料理店で早くから用いられていたが、本格化するのは薬喰いと言われた獣肉料理の専門店が江戸の深川や吉原といった色街で増え始めてからである。江戸後期の儒者、寺門静軒の書いたベストセラー『江戸繁昌記』(1832)には「凡そ肉は葱(ねぎ)に宜し、一客に一鍋、火盆(ひばち)を連ねて供具す」との記述があり、桜鍋(馬肉)、紅葉鍋(鹿肉)、ぼたん鍋(猪肉)などを食することが当時の江戸通人の最先端のファッションであったことを示している。ちなみに浅草・駒形にどじょう料理店が開業したのは、文化元年(1804)とされており、開店当時からどじょう鍋、どじょう汁を食わせていた。
獣肉を食べることが流行の先端であったとはいえ、まだ延喜式以来の肉食穢忌の風習は強く、福沢諭吉の『福翁自伝』によると、安政4年(1857)頃に大阪で牛肉を食わせる店は難波橋南詰と新町の廓の側に二軒しかなかった。最下等の店で、彫り物だらけの街のごろつきか緒方洪庵の家塾「適塾」の塾生しか出入りしなかったという。「殺した牛やら病死した牛やら頓着なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった」と福沢は記している。